子どもたちの読書の時間: 10 分
昔、“賢いエルシー“と呼ばれた娘がいる男がいました。娘が大人になったとき、父親が「娘を結婚させよう」と言い、母親は「ええ、もらってくれるだれか来てくれるといいんですが」といいました。とうとう一人の男が遠くからやってきて、妻にほしいと申し込みましたが、男はハンスと言い、賢いエルシーが本当に頭がよくなければいけないという条件をつけました。「ああ」と父親は言いました。「娘にはたくさん分別がありますよ。」そして母親は、「まあ、あの子は風が通りを吹いてくるのが見えるし、ハエが咳き込んでいるのがきこえますよ。」と言いました。
「なるほど」とハンスは言いました。「もし本当に頭がよくなければ、もらいませんよ。」みんなが夕食の席について食べ終わったとき、母親が、「エルシー、地下室へ行ってビールをとっておいで」と言いました。すると、賢いエルシーは壁からジョッキをとり、地下室へ入って、退屈しのぎにふたをパパパッとたたきながら歩いていきました。下に下りると、椅子をもってきて、かがんで腰が痛くなったり思わぬ怪我をしないために、樽の前に置きました。それから自分の前にジョッキを置き、樽の栓を回しました。ビールが樽から出ている間、エルシーは目を遊ばせておかないで壁を見上げました。あちらこちら眺めまわした後、ちょうど自分の頭の上に、職人がうっかり置き忘れたつるはしが見えました。
すると賢いエルシーは泣きだして、「ハンスと結婚して、子供が生まれ、その子が大きくなって、ここの地下室へビールをとりに行かせる、するとあのつるはしが子供の頭に落ちて、子供は死ぬわ。」と言いました。それから、目前にある災難を嘆いて、座ったままわんわん泣き叫びました。
上にいる人たちは飲み物を待っていましたが賢いエルシーはまだ来ませんでした。それで母親が女中に、「ちょっと地下室へ下りて行ってエルシーがどこにいるか見ておくれ。」と言いました。女中が行ってみるとエルシーは樽の前に座り大声で泣き叫んでいました。「エルシー、どうして泣いてるの?」と女中は聞きました。「ああ」とエルシーは答えました。「泣かないでいられないわ。ハンスと結婚して、子供が生まれ、その子が大きくなって、ここでビールをとる、たぶんあのつるはしが子供の頭に落ちて、子供は死ぬわ。」すると女中は「なんて賢いエルシーでしょう。」と言って、エルシーのそばに座り、その災難を嘆いて大声で泣き始めました。しばらくして、女中が戻ってこないので、上の人たちはビールが早く欲しくて、父親が下男に「地下室に下りていって、エルシーと女中がどこにいるか見てきてくれ。

」と言いました。
下男が下りて行くと、賢いエルシーと女中の二人とも座って一緒に泣いていました。それで下男は聞きました。「どうして泣いているんだい?」「ああ」とエルシーは答えました。「泣かないでいられないわ。ハンスと結婚して、子供が生まれ、その子が大きくなって、ここでビールをとる、あのつるはしが子供の頭に落ちて、子供は死ぬわ。」すると下男は「なんて賢いエルシーなんだろう。」と言って、エルシーのそばに座り、これも大声で泣き始めました。上では下男を待ちましたがまだ戻って来なかったので、父親は母親に、「地下室へ下りて行ってエルシーがどこにいるか見てきてくれ。」と言いました。
母親が下りて行くと、三人とも大泣きの真っ最中だったので、どうしたのか尋ねました。するとエルシーは母親にもまた、将来生まれてくる子供が、大きくなってビールを汲むことになりつるはしが落ちて死ぬだろう、と話しました。すると母親もまた「なんて賢いエルシーなんでしょう。」と言って、座り、一緒に泣きました。
上にいる父親は少し待っていましたが、妻が戻らなくてますます喉が渇いてきたので、「おれが自分で地下室へ入ってエルシーがどこにいるか見るしかないな」と言いました。しかし、地下室に入るとみんな一緒に座って泣いていたので、理由をきいて、エルシーの子供が理由だ、エルシーがたぶんいつか子供を生み、その子がつるはしが落ちるときたまたまその下にいてビールを汲んでいれば、つるはしに殺されてしまう、と聞くと、父親は「ああ、なんて賢いエルシーだ」と叫び、座って、これもまたみんなと一緒に泣きました。
花婿は長い間一人で上にいましたが、誰も戻って来ないので、「きっと下で僕をまっているんだ。僕もそこに行ってみんなどうしているか見て来なくては」と思いました。花婿が下りて行くと、五人みんなが座ってとても悲しそうに、どの人も他に負けないくらい大声で泣き叫んでいました。「どんな不幸があったんですか?」と花婿は尋ねました。エルシーは「ああ、ハンスさん、私たちが結婚し、子供が生まれ、大きくなって、たぶんここへ飲み物をとりにやらせ、するとあそこの上に置き忘れているつるはしがひょっとして落ちてこどもの頭を打ち砕くでしょう。泣かずにいられませんわ。」と言いました。「それじゃあ」とハンスは言いました。「これでうちの所帯には十分だとわかったよ。あんたはそんなに賢いエルシーだから、嫁にもらおう。」ハンスはエルシーの手をとり、一緒に上へ連れて行き、結婚しました。
結婚した後しばらくしてハンスは「エルシー、おれは働きに出て、おれたちの金を稼いでくるよ。パンが食べれるように、畑へ行って麦を刈ってくれ。」と言いました。「いいわよ、あなた、やっとくわ。」ハンスが行ってしまうと、エルシーはおいしいおかゆを作り、それを畑へ持って行きました。畑へ着くと、心の中で「どうしようか、先に麦を刈ろうか、先に食べようか、うん、先に食べようっと。」とかんがえました。それからおかゆを食べ、お腹がいっぱいになると、もう一度、「どうしようか、先に麦を刈ろうか、先に眠ろうか、先に眠ることにするわ。」と言いました。それから麦の間に寝転がり、眠りました。
ハンスはもうとっくに家に帰っていましたが、エルシーがこなかったので、「なんて賢いエルシーを嫁にしたんだろう。とても一生懸命働いて飯を食いに帰ってもこないや。」と言いました。しかし、夕方になってもまだ帰って来ないので、ハンスはエルシーがどれだけ刈ったか見に出かけていきました。しかし、何も刈られていなくてエルシーは麦の間で眠りこけていました。
するとハンスは急いで家に帰り、小さな鈴がたくさんついている鳥網をもっていき、エルシーのまわりに吊るしました。エルシーはそれでも眠り続けました。それからハンスは走って家に帰り、戸締りをして、椅子に腰かけて仕事をしました。とうとう、真っ暗になってから賢いエルシーは目を覚まし、起きあがると自分のまわりでチリンチリンと鈴の音が聞こえ、一歩歩くたびに鳴りました。するとエルシーは驚いて、自分が本当に賢いエルシーなのかわからなくなり、「私なの?私じゃないの?」と言いました。しかし、これに何と答えるかわからなくて、しばらく考えて立っていましたが、とうとう、「家へ帰って私か私じゃないかきいてみよう。きっとみんなは知ってるわ。」と思いました。エルシーは走って自分の家の戸口へ行きましたが閉まっていました。それで窓をたたいて、「ハンス、エルシーは中にいるの?」と叫びました。「ああ、中にいるよ。」とハンスは答えました。これをきいてエルシーはぎょっとして、「ああ、どうしよう、じゃあ私じゃないんだわ」と言いました。それから別の家に行きましたが、鈴がチリンチリン鳴る音を聞くと戸を開けようとしませんでした。それでエルシーはどこにも入れませんでした。それからエルシーは村から走って出て行き、そのあとは誰もエルシーを見た人はいません。

背景情報
解釈
言語
このお話は、グリム兄弟による「賢いエルゼ(知恵者エルゼ)」というドイツの民話です。この物語は、軽妙なユーモアと皮肉を交えて「賢さとは何か」を考えさせられる風刺的なストーリーです。
物語の中心にいる「賢いエルシー」は、幼い頃から非常に賢いとされていましたが、物事を深く考えすぎて、結果的にうまく行動できないキャラクターとして描かれています。エルシーと家族の「何も起こっていない未来の惨事」を嘆く様子や、非現実的な懸念によって行動が止まってしまう姿がコミカルに描かれています。
この物語は、考えすぎるあまりに何も進まなかったり、実際には起こらないかもしれない未来の不安に囚われたりしてしまう人々への風刺と解釈できます。また、エルシーが自分の正体について混乱し、最終的に村を去るという結末が、他者の意見や外部の評価に依存しすぎることへの警鐘を鳴らしているとも言えるでしょう。
この話は、グリム兄弟の他の多くの物語と同様に、当時の社会の価値観や教訓を盛り込んだ寓話として、読み手にさまざまな解釈を与える機会を提供しています。
この物語は「賢いエルゼ(または賢いエルシー)」という、グリム兄弟による有名な童話です。この物語のテーマや意味を考える際には、以下のようなポイントが挙げられます。
皮肉とユーモア: エルシーは「賢い」と呼ばれていますが、その行動や考え方はむしろ愚かさや過剰な思い込みを示しています。この対比が物語のユーモアを生み出しています。
先読みしすぎることの危険性: エルシーは、まだ起こっていない未来の悲劇を想像して泣き崩れます。これは、未来の不安に囚われすぎることの危険性を示しているとも解釈できます。
自己喪失: エルシーが自分が誰であるかを見失い、村を去ってしまう結末は、アイデンティティや自己認識に関する寓話としても解釈可能です。自分が誰であるかを理解していないと、最終的に居場所を失ってしまう恐れがあります。
他者の期待への過剰適応: エルシーは他者から「賢い」と称賛されるが、それに過剰に適応しようとする過程で、本来の自分を見失っています。これは他者の期待に応えようとすることの落とし穴を描いているともいえます。
風刺: この物語は、「賢さ」とは何かについての風刺とも解釈できます。エルシーや周囲の人々の「賢さ」の基準が滑稽であることを通じて、知性とは何かについて疑問を投げかけています。
こうした側面が、この物語が多くの解釈を生む要因となっています。どの解釈を採用するかは、読み手自身の価値観や視点に依存します。
「賢いエルシー」(“Clever Elsie“)はグリム兄弟による寓話で、エルシーという女性の逸話を描いた物語です。この物語は以下のような特徴を持っています。
過剰な思慮深さとその結果: エルシーは非常に思慮深く、結婚後に生まれるであろう子供の未来を不安視するあまり、非常に極端であり得ないシナリオ(つるはしの事故で子供が死ぬ)を考えて泣き崩れます。これは、過剰に思考を巡らせることの愚かさと、その結果何も進まなくなる状況を風刺しています。
コミカルな誇張: 物語はエルシーの過剰な心配を通じて、他の登場人物たち(女中、下男、両親)が次々にその感情に巻き込まれていく様子を描写します。この流れは、コミカルでシュールな雰囲気を生み出しています。
アイデンティティの喪失: 最後にはエルシーが自分自身を見失い、自分が「賢いエルシー」であることを確認するために村に戻りますが、自身の思い込みによって最終的に村を去ることになります。これは自己認識や自己同一性に対するテーマを浮き彫りにしています。
教訓的要素: この物語には過度な心配や考えすぎがどのように現実を見落とさせるか、または現実で本当に重要なことを無視させるかという教訓を持たせています。つまり、本当に賢いことと、ただ思い悩むことの違いです。
グリム兄弟の物語はしばしば、社会的な教訓や風刺を含んでおり、「賢いエルシー」もその一例と言えるでしょう。この物語は現実からかけ離れた過剰な思考や推測が、現実的な行動を阻むことへの戒めと捉えることができます。